レンゲの丘からこんちは
寸描
枠から飛び出した、ある破天荒養蜂家の物語
序 章
金剛山の麓で金剛・葛城・二上山から続く生駒連山は、大阪平野と奈良盆地を境とする山並みである。
その金剛山の分水嶺を水越峠と呼び、難所ながら今は大阪側と奈良を結ぶ国道309号線が整備され、車で数分も下ると千早赤坂村に至る。
いざ国を開く(1392年)と日本史の年号で覚えた遠く南北朝時代、十数万の鎌倉の北条軍と戦った楠正成親子の湊川の別れは、忠魂の碑として戦前の国定教科書に取り入れられた楠正成の生誕の地が千早赤坂村。楠公産湯の井戸からは、今も水が湧き出ている。
楠正成を主人公とする山岡荘八氏の太平記や、まんが太平記の主人公を輩出した千早赤坂村からさらに車で7~8分下ると富田林市佐備にいたるが、この佐備の地で昭和19年に誕生した一人の男の子がいた。
東山家当主・東山秀重の3人兄弟の末っ子、東山秀雅がその人だが、農家では、こどもが3人いると末っ子の養育は親からもほったらかしにされ、天衣無縫に成長し、まるで今太閤のごとき自由奔放に生き始めた一人の破天荒な人生物語がここにある。
秀重は代々田圃や佐備近辺の山持ちで、山々にはミカンの木を植え、消毒や収穫時には季節労働者などもここで働いていた事実がある。ミカンの花の受粉には、蜂などの昆虫が大切な役割をすることから、破天荒息子の秀雅の着眼点は、父親秀重の保有するこのミカンを利用した養蜂場を立ち上げアズマ養蜂場を看板にかかげたのである。
親の財産の大半を受ついだ長兄の人生スタンスは、どうしてもそれを守る方向性が主体であることに対し、秀雅のそれは、無から有を立ち上げる養蜂業の看板を、ぐいぐいと攻める展開型ベクトルが強く、そのギャップが潜在的守り型の長兄から、攻撃型の秀雅に何かと向けられるなどとは気が付く由もなかった。
ゼロから養蜂業を立ち上げた秀雅の蜜蜂との最初の接点は、和歌山県もミカン立県であり、和歌山周辺には日本でも有数の養蜂業の懐に飛び込んだのである。
秀雅の長男によるのミツバチ農園のホームページを見ると、「大阪府南部南河内の、恵まれ大阪南部でのみつばち養蜂は、自然環境のもと、創業45年の実績を誇る私どもスタッフが自家採取した蜂蜜を生産者直売しています」と紹介されている。
花から花へと蜜原花を求めて移動する養蜂業の説明は、それを小説にした吉岡昭の「蜜蜂乱舞」が有名。
小説、「蜜蜂乱舞」の粗筋は・・・・「鹿児島の菜の花の採蜜は終わった。東京の大学を中退して行方知れずになっていた長男が現れ、四日前に結婚したという・・・世代間交代の難しさに直面しつつ、四月の訪れと共に、一家は花を追って、日本列島を北海道に向けて北上するトラックの旅に出る・・・・」
旅先で遭遇する事件や人間なるがゆえの葛藤を、雄大精妙な自然界の摂理を背景に捉えた力編だが、 東山秀雅の人生と重ねると、奇妙な符号で合致することが数多く垣間見れることに気づく。
第2章 破天荒人生への糸口
時計の針を少し戻して養蜂業に入る前のことにも少し触れて、彼の天衣無縫な奔放的行動の背景を説明しておきたい。
小柄の体格の秀雅の小学校や中学校の記録は一切ないが、伝聞によると、長兄にかなり虐められたせいか、家に居つくより土地の丘陵や田畑を居場所として、その辺を自由に飛び回っていたことは想像に難くない。
まるで太閤秀吉の幼年を彷彿させる活発で自由奔放奔な少年時代のスタイルであった。 しかし、進学した農芸高校での存在は、決して表立つこともなく、むしろラグビー部に所属した友人の田中氏に従属していた可能性もある。
後年、現役退職後、高校の同級だった田中某が、養蜂業にその居場所を求めて、秀雅の養蜂場に出入りしてからも、学生時代は親分然としていた友人を、定年退職後の第三の居場所として受け入れたのも秀雅で、数年後養蜂の現場で、ヘビースモーカーの彼の不注意と思しき山火事を招き、秀雅が下半身大火傷をおい、救急搬送され2か月余も火傷の入院治療する羽目に至るなどは、夢想だにしなかった友情愛の結果であった。
さて、今一度時計の針を戻そう。 卒業後の就職先を、大阪本町の老舗の昆布屋に選んだ理由は不明だが、昆布屋の次が、大国町の鳥清ハムソーセージ工場(日本ハムの前身)、その面接には、藤井という友人とラグビー部の田中氏とで受験し、藤井氏と田中氏が受かり、秀雅はそその次の受験先、市立大阪市天王寺動物園に採用され、これが大当たり、大型の象舎や、ラクダ舎、狼舎と各種動物の世話を担ったのである。
この動物園では、市の労働組合の力が強く、午前に獣舎の清掃が整うと、午後3時には、入浴して帰宅できるという労組天国であった。祝祭日の出勤や雨天の場合は、割増の労働対価がえられ、飼育員達は、好んで、祝祭日や雨天の勤務を望むといった具合であった。
或る日、彼がオオカミ舎の清掃が終わり、バックヤードで一休みしているときのこと、訪ねてきた一人の男と出会った。この人物は、航空会社を定年退職し、動物好きの関係から、大阪の動物商の対外交渉の担当となり、ロシアの野生動物保護局と懇意の伝手で、ロシア生まれの♂♀のホッキョクグマを確保納入した人物だが、毎週金曜日には、動物の餌の冷凍マウスや、鳥類の餌として生きたコオロギを納入しにくる折、納入場所の並びにあった秀雅の担当する狼舎で偶然に出会った人物である。
秀雅の語学力は、正直言って決して高くはないが、窮屈な保守的の地区養蜂組合との進歩性のない寄合主義の活動にはなじめず、彼の目線は、海外の養蜂家や養蜂関連器具の先進性への知的吸収にむけられることになる。
この場合どうしても、語学が必要となり、英語やロシア語との絡みを必要としていた。狼舎のバックヤードでの動物商の海外折衝担当者との出会いは、先進的な世界の養蜂知識の吸収に目を向ける格好の存在だとの直観がひらめいたのである。 人懐っこい秀雅独特の対人嗅
覚でたちまちこの動物商と昵懇となってしまう。
第3章 養蜂学会 Apimondiaとの出会い
養蜂学会の世界的組織に、Apimondiaという2年に一回、世界中の養蜂関係者が集う、いわば養蜂万博とでもいう存在があり、期間中
養蜂論文や、養蜂の指向性を話し合うシンポジュウムでは、英語、ロシア語、フランス語、スペイン語などの同時通訳が提供されているが、日本語の同時通訳はない。
学会と並行して、養蜂器具の展示や、各国の養蜂の歴史を示す100社以上のブースのApi・Expoも同時に開催され養蜂関係者の入場数も多い。
秀雅は、これに目をつけ、あずま養蜂場独自の展示ブースでの出展にうって出た。 そのブースで展示するのは、蜂蜜でもなければ、養蜂器具でもなく、なんと、外国の切手蒐集熱に目をつけミツバチがレンゲに舞う日本の切手のシートを持ち込んでそこで販売したのである。
この奇策が当たり、記念にと買い求める養蜂同業者の列ができたほどであった。 勿論、ブース来訪者からは、名刺や来訪者ノートへの氏名情報を記入してもらった。
秀雅の今太閤に比肩しうる突飛な行動力が見事に発揮された一面であった。
アイルランドのApimondia大会のときなどは、切手を売る秀雅のブースに立ち寄ったスペインの養蜂業者と、手真似身振りでたちまち昵懇となり、切手を買ってもらうばかりでなく、スペインのバレンシアにある、先史8000年頃の岩窟に描かれた、縄梯子を伝って蜂蜜を採取する女性の壁画の話に飛び、スペインにぜひおいでとの約束を取り付ける離れ業も発揮している。
先にも述べたように、Apimondia の世界大会は2年に一度世界の各都市が持ち回っての養蜂学会の開催だが、CanadaのMontreal大会の折は、さらに彼の奇策が発揮される。
一つは、これはと言う彼のブースへの来訪者には、友達感覚で接触し、なんと、カナダ在住の養蜂家や、英国から参加の養蜂家に、長男俊雅の留学兼養蜂業修得を成立させたことで、事実、長男を、カナダと英国の養蜂業者宅に、長期滞在させ、語学と養蜂の知識を得ている。 日本国内の養蜂業者では、このような、国際的展開をする業者は少ない。
Apimondiaの会場でフランス養蜂業者と流暢な英語で対応する俊雅の写真があるが、この写真の人物とは、フランスの花粉蜜の意見交換をしている場だが、彼自身の努力もありと言えども、父親が設定したカナダや英国での語学習得が大きく花開いたもので、次世代育成への父親路線の実は決して否定されるものでない。
第4章 ログハウスのミツバチ博物館
さらに、アピモンディアのカナダ大会の機会、秀雅が発揮した奇想天外の思考力は、カナダのログハウスに目をつけ、富田林の自宅脇にログハウスを建てるカナダ木材の一式輸入を契約したことであろう。
事実このログハウスは、旧309号の国道沿いの立地に、ここを通過して金剛山にいく多くの客の目にとまり、ミツバチ養蜂場の格好の宣伝となったことである。
2階建てのログハウスの内部構造の2階部分を主体に、世界から集めたミツバチの巣箱や蜜ろう、歴代の日本の巣箱、先史6000年前に、スペインのバレンシアの岩窟に描かれた壁画のレプリカ展示など、小さいながらミツバチ博物館としての機能が発揮されている。
このような思い付きと行動力の結実は、一つの財産として次世代に引き継がれるものであり、引き継ぐべき次世代の人たちは、親世代の努力とその恩恵を評価し、高い尊敬の念をもつべきであろう。
このログハウスは、1985年に開館し、1997年にRenewal Openした。 一階のエントランスには、東南アジアの大ミツバチ(Apise
Dorsata)の巣などを展示し、2階が博物館、大昔の壁画の写真や世界中の巣箱、燻煙気など、養蜂に使う各種グッズが展示されている。
第5章 苦い挿話
南アフリカ・ダーバンでの恐怖の経験
語学に難のある秀雅にとっては、語学にある程度堪能な動物商の対外折衝力のある人物との出会いは、彼の外国の養蜂事業への更なる先進性の吸収を可能とする土台を築く契機となった。
その後、この語学達者な人物と一緒に、アフリカのダーバン大会、スロベニアのリュブリャーナ大会、アイルランドのダブリン大会、スペイン、やオーストラリア大会などに参加しているが、ここでも様々な珍事を経験している。 なかでも、南アフリカのダーバン大会では、傑作ながらも大変な事件に遭遇しているので披露しておきたい。
南アフリカと言えばアパルトヘイトの国、白人と黒人の同席はできないなど有色人種の差別が厳しい白豪時代は、治安も安全であったが、黒人解放でマンデラ氏が大統領となって、南アフリカ全体の治安が極度に悪化したのは否定できない。
第19回のアピモンディア学会は、南アフリカの第二の都市ダーバンで開催された。 ダーバンと言えば、南アフリカ有数の貿易港で、スエズ運河が完成しても、欧州とアジアを結ぶ南アフリカ航路は、このダーバンに立ち寄ってインド洋からシンガポールを経由して日本を結ぶ一大航路である。黒人国家となった南アフリカでは、強盗殺人は日常茶飯事、警察力など外国人には遥かに及ばぬ治安と思えばいい。
このアピモンディアのダーバン養蜂学会に参加のため、秀雅と動物折衝担当者の二人は、大阪から、香港に飛び、香港からのダーバン直行便でダーバンについた。
この大会への参加申し込みが遅れたので、会場近くのホテルは満室、いろいろ探し、ホリディーインの予約がとれていたが、閑散としたダーバンの空港につき、入国管理も済ませ、最後の最後になって、やっと運転手らしき細痩せの若い黒人が現れ、車の駐車場に案内してくれると、一人の小太りのホテルの従業員らしき少しドイツ語なまりの英語を話す白人女性が送迎車の後ろから現れ出迎えてくれた。
見知らぬ黒人社会の外国にきて、ドイツ系白人女性の空港の出迎えに会うとホットするのは、誰でも経験すること言うまでもない。
二人が乗った車は、空港直結の高速道にはいり、順調にすべりだした。 と、その時、高速道路の前方に二人の人影が走り出て、左に寄れとの合図があった。 元大英帝国の統治の南アフリカでは、イギリス系植民地が皆そうであるように、右ハンドルなのだと納得していると、胸にやたらな銀バッチを付け腰には拳銃の抜き身を挿した警官らしき服装の人と、手にファイル紙をもった若者が寄ってきて、車の中を覗き、ホテルから迎えの白人女性と車外でなにやら小声で話し合っていたが、ヒョイと車のドアーをあけ、今朝ダーバン空港で二人の麻薬犯が捕まったが、他の仲間が逃走中なので検問中という。
こんなところで麻薬犯に間違えられ例え一時的にせよ拘束でもされたら難儀だと、素直に同意すると、先ずパスポート拝見という。パスポートをめくっていたが、麻薬検査のため財布もついでに出せ・・とそのテンポの良さに思わず財布くらいならと差し出すと、秀雅には、財布のほかに現金のある場所はないかといい、うっかりここにもありと胴巻きにしていた帯を解くとそれも調べると取り上げられ、車の外でごそごそしていたが、ハイ大丈夫です・・・とパスポートや財布類を一括して返還しHave
a nice dayと解放されたのである。
車がホテルにつきCheck Inのとき、Reception Deskで、ふと財布のVisa Cardをだすと、財布にある筈の数十枚程の万札がない秀雅の財布や胴巻きの円札もない。
そこで、やっと高速道路のあの二人は偽警官の恰好をした強盗犯だったと気づいても後の祭り、学会や展示会の会期を前にして、二
人とも誰も頼るすべ無き異国の地で無一文になってしまったのである。
あなただったらどうするか? 今太閤秀吉の秀雅が考え出したのは、二人のポケットの小銭やドル札を合算して共同管理をしよう。 幸い残されたCredit
Cardで、ホテル代を清算し、プールした残りの小銭でホテルから会場の往復のタクシーを選びチャーターベースにし、毎朝ホテルの前で客待ちしている一番ボス的な運転手に、日本から何が欲しいか?聞いてみよう。
答えは中古のタクシーメーターが欲しいとのことだった。 OKそれを後払いのタクシー代と相殺するという虫のいい提案をしてみたのである。驚くとことに、納得したタクシーの運転手は大喜び、早速タクシー運転手の家住所と宛先の書付をくれ、お陰で学会終了後、ホテルから空港までもこのタクシーに乗車した。 怖い殺人強盗もいれば、心優しい庶民もいる、南アフリカ、ダーバンでの秀雅の機転のきく悪しき想い出となった一幕である。
第6章 Coronaとの追いかけっこ
それは、2020年(令和2年)の1月のことだった。丁度養蜂作業が忙しくなる前のブランクの日程で、秀雅はふと、インドネシアの新種のアピス・ドルサータ(ミツバチの学名)の大物営巣を見たいと言い出した。
またまた破天荒親父の思い付きだが、思い立ったらすぐ走る・・・インドネシア側の受け入れを調整し、2月中旬に雨季が明けるから、それ以降にイラッシャイとの確答をうけた。
しかし、思い立ったがが吉日と、せめて一週間前倒しにして、2月の第一週に航空券の予約を進めて、全日空とインドネシア航空の共同運航便に彼一人の単独行動で飛び乗ってしまった。
その頃、日本では、世界一周豪華客船プリンセス・ダイヤモンドが横浜港に停泊し、コロナ患者の一人を下船させ、中国に送還した頃と合致する。まだコロナの恐ろしさは、さほど知られていない段階である。 その後、コロナの船内感染でクラスターが発生し、ダイヤモンド・プリンセス号は、横浜港に3か月近くもくぎ付けになり、コロナの大爆発流行となっていった。
もちろんインドネシアでもコロナ感染騒ぎは始まっていたが、そんなことは馬耳東風、アピス・ドルサータの新種のいる島に飛び、
丁度雨季の最後だったので、雨にもうたれ、秀雅も、軽い風邪をもらい、発熱状態にも関わらず、帰国便に飛び乗り関西空港に着いたその日から、空港の検疫が厳しくなったものの、発熱患者の検査は無申告で、Immigrationを通過、大手をふって帰宅してきたのである。
コロナ騒動の端緒で、帰国したものの、軽い発熱に驚いたのは家族。
2月第2週からは、全日空とインドネシア航空の共同便も運航停止、あと数日遅くなっておれば、インドネシアに足止めされ、大変な事態になっていたのは事実である。 インドネシアの人口は、丁度日本の倍の2億人となり、後で聞けば、コロナの感染率もかなり高いと知ったのである。
結果論としては、新聞ネタにもでもなりかねない、養蜂家の破天荒な行動も、タッチの差で助かった一例だが、これも彼の強運の一つかもしれない。
第7章 移動養蜂から播種採蜜へ
ハチミツには、三蜜と呼ばれる蜜源花がある。現在大流行のウイルスによるコロナ予防の「三蜜」でなく、「レンゲ」「ミカン」「アカシア」の花蜜のことである。
ほんの30年ほど以前では、田んぼをピンク染めて、誰でも身近に春先を感じる風物詩でもあったが、現代の今では、田んぼのレンゲは、見る影もなく失われた風景であり、花から花へとミツバチの巣箱を移動させる養蜂家にとっては、蜜原花を失い大きな痛手となっている。
そこで思い付きのよい秀雅が考え出したことは、レンゲの種を田んぼに撒く播種養蜂であった。
秀雅自身も多少の田んぼを保有しているが、それだけでは物足りない。 そこで、近隣の田圃の地主を訪れて、レンゲの播種を申し出た。 地主は田の畔などの損失をおそれて、なかなか納得してくれないが、秀雅の巧みな人懐っこい説得力で、使用許可を得ると、田起こしから、畔の草刈りやレンゲの花終了後の田んぼの管理までの使用を確保したのである。
ところが問題は、そのためのトラクターがどうしても必要とされる。
そこで、思いついたのが北海道農業から出る中古のトラクターの購入を考え出した。 第一号は小さめのトラクターだったため、さらに2台目、三台目と中古トラクターの買い付けに奔走したのである。
中古のトラクターの現地価格は、割安としても、その運搬に、函館まで陸送し、日本海フェリーで敦賀経由、富田林佐備まで陸送となると、高額な運送料がつくことは、今太閤の秀雅が、それに気づいても後の祭りとなった。
佐備の高台にあるレンゲの田圃からは、金剛山麓のワールド牧場が見渡せ、レンゲの田圃を訪れる人を楽しませてくれた。
純粋なレンゲのハチミツを播種養蜂でと思いついたのは可としても、費用対効果の原則から見れば、採蜜の品質がいかに良好であっても、
大変な労働力も原価の構成を成す支出であることは避けざる事実であった。 しかし、今太閤の秀雅の考えは、どんなに出費がかさもうが、品質のよい田圃のレンゲを管理すれば、消費者への最高の贈り物と、独自路線を突っ走った。 しかし、この思い付き行動は、当然出費を招き蜂蜜の原価構成に難がでてくるのは事実であって、家族からはかなりの苦情がでたのは事実である。 費用対効果の原則に反する秀雅の失態であった。
しかし、次世代の人々は、彼の広い心を感じ、彼の行動や出費に対する苦情を出す前に、採算を度外視しても、あずま養蜂場のキャッフレーズである「蜜蜂が集めた100%純粋のハチミツ」を実践し顧客に純粋蜂蜜を提供したいという秀雅の果敢な行動力に慈しみ尊敬の念を感じて然るべきでなかろうか。
老いては子に従えとの諺どおり、破天荒な親世代にも、老齢いという影がつきまとう。 世代交代は必ずやってくる、その時こそ親世代が広げた養蜂の財産を、尊厳を以て受け継ぐ心の準備さえあれば、 其れでいいのではなかろうか。
ところで、ミツバチの三つの代表的蜜源花に、「レンゲ」「ミカン」「アカシア」の三蜜を紹介したが、「アカシア」の蜜源にも触れておきたい。
東欧からApimondiaに参加していた養蜂グループとカナダのMontreilの会場で出会ったMr.Shandor Storkというハンガリーの養蜂組合長から聞いた、ハンガリーのアカシアの群生をぜひ見たいと、遠くハンガリーのブタペストに旅したことがある。
ニセアカシアは20メートルを超す大木に育つ。初夏にはよい香りの白い花を房状に付ける。藤の花にそっくりであって、散るときは花吹雪になり地面を白く染める。
ハンガリーでは、広い平坦な大地の幹線道路沿いに、大区画のアカシアの大群を車窓から眺めていた秀雅の記憶の復元を、見事金剛山麓に蜜原花として実現させた寓話もある。
佐備の田圃に播種したレンゲが花咲き、その台地の田圃から金剛山を眺めたとき、山麓のワールド牧場が一望できたことは先述の通りだが、この山麓の空き地にアカシアの植林して安定した蜜源を作出してみたいという願望が閃いたのである。
そこで、ワールド牧場と掛け合って、アカシアの苗木の植林可の契約を結び早速アカシヤの苗木を植え付け作業が始まった。 驚くなかれ植え付けたアカシヤは、2千本にも達したが、そのアカシヤが成長して花をつけるまでには十数年を要すると、誰もが思ったことだろう。
しかし、アカシヤの成長は早く、4~5年で成木になり、採蜜可能な蜜原花となるとは知る由もなかった。 アカシヤにはとげがある。 でも、小体のミツバチが樹木の間を飛翔するには何ら問題ない。
定着養蜂として、アカシヤを蜜源花とするミツバチが集めた100%純粋のハチミツ・・その夢の結実は後世代だということは、秀雅の破天荒の脳裏に果たして閃いているのだろうか。
第8章 破天荒人生の活動を支えた内助の功
かくのごとく、破天荒秀雅の進軍ラッパは、行動の裏付けに、突発的な出費を伴うこと多々あったことは否定できない。 彼が、大阪市の職員として市立天王寺動物園に40年間奉職したことは先に述べたが、公務員の兼業副職禁止事項のため、彼が天王寺動物園を退職するまで、その間、養蜂場を支えたのは、長男の俊雅をはじめ、長女の則子、それに養蜂場の経理を担当し、東山商店の舞台裏を社長となって支えた妻、美代子氏の功績は大きい。
市立天王寺動物園を退職した彼にオファーされたのは、大阪城公園の駐車場管理だった。 普通の退職者なら、それで満足したかもしれないが、彼の場合はそれを受け入れる枠に留まらず、世界を視野にいれ、養蜂業の経験も知識も熟知している第二の居場所としての選択肢を、養蜂業への回帰として置いたのである。
ここで再度の確認だが、破天荒旦那の秀雅が40年間、大阪市立天王寺動物園に奉職しているその間、この養蜂場を支えたのは、妻の美代子、長女、長男であったと言っても過言でない。
特に経理担当の美代子の存在は、大きく、Apimondiaの数々の学会にも、陰のごとく寄り添い、出費のコントロールで、移動財布の役目を果たしてきた。
太閤秀吉の妻「ねね」のごとく寄り添って破天荒の主人を支えたのである。
他方パティシェ志望の長女の則子は、訪仏のパティシェ・グループに帯同し、旅行中に出会った大手洋菓子メーカーの担当者から、日本作出の純粋蜂蜜が欲しいといわれ、年間相当量のハチミツの継続納入にも成功して、母の経理状態の安定運営に多大のサポートしたことも無視できない。
しかし何と言っても養蜂の現場で、破天荒の父親が大阪市立天王寺動物園に出仕して不在の折、主役として東山アズマ養蜂場を献身的にサポートしたのは、長男俊雅であったことは否定できない。
その理由はどうであれ、カナダや英国に養蜂留学させてもらい、父親不在の養蜂園の実質的な経験を踏まえたその養蜂技術は、父親に迫る能力を修得した今、父親の養蜂の現業復帰で、自分の居場所の喪失感とともに、事々に衝突するのは止むなき圧力であったであろうことは十分推測される。
冒頭紹介した吉村昭氏の「ミツバチ群像」にも、世代間交代の巧まざる局面が感じられる場面もある。
夜の明けぬ朝はない。太陽は必ず朝を照らし夜が去る。同じく、長男俊雅にも父世代との交代という朝が必ず来る。 そのとき、破天荒親父の築いた養蜂業を受け継ぐ親子の信頼関係を構築する環境づくりは今しかない。
(出展の各氏は個人保護のため代名表示です)
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